2014年04月01日

長崎医大の悲劇

長崎医大の悲劇

 ときは太平洋戦争末期。高校、大学とも繰り上げ卒業に加えて、学徒出陣が余儀なくされていた。医学部だけは卒業まで兵役が猶予され、4年を3年で卒業する事態になっていた。その代わり、日曜、休暇全廃の一日の休みもない講義・実習が続いた。当時、工学部、理学部といった軍需産業関連の学部が花形で、医学部は人気がなく、ほとんどの大学で定員割れ状態だったそうだ。

 昭和20年8月9日午前11時2分、長崎医大は夏休み返上で講義・実習の真っ最中だった。当日は7時に空襲警報が出され、9時に解除されていた。長崎医大(現、長崎大学医学部)の真上で炸裂した広島の原爆よりさらに強力なプルトニウム型原爆は、その熱線、爆風、放射線によって、一瞬にして多くの学生・教職員の命を奪った。基礎医学教室と大学本部は原爆の直下にあり、出席していた1〜2年生(医学専門学校生)と教職員は全員が爆死した。病院実習中だった高学年(3〜4年、当時は医学部の1〜2年と称した)は病院のコンクリートの影にいた学生の一部が助かった。当時の医学生総数約580名のうち、死者は414名にのぼった(1年生167名、2年生110名、3年生73名、4年生64名)。看護学生58名、薬学専門部生36名も爆死した。教職員は、角尾学長をはじめとする教授17名を含む42名、事務職員206名、看護師58名が犠牲となった。大学の学生・教職員の犠牲者総数は892名にのぼった。建物
を含め、長崎医大は文字通り壊滅状態となった。

 政府はいったん長崎医大の廃校を決定した。しかし、地元有志、同窓会、大学が懸命に存続を請願した結果、当時の最高行政機関だった占領軍司令部(GHQ)が存続を決定した。生き残った4年生の卒業式は、昭和21年9月に行われた。出席できたのは、学生33名と教授4名だった。
posted by pathologist at 20:20| Comment(0) | 以前の日記
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