2014年04月01日

京大原爆調査団の悲劇









京大原爆調査団の悲劇


 昭和2086815分に広島市中心部に落とされたウラン原爆は、一瞬にして市街地を破壊するとともに多くの市民の命を奪い、戦後長く続く原爆症被害の原因となった。


 いち早く原爆被害の実態調査に協力したのは医学部と理学部の科学者よりなる京都大学調査団だった。理学部原子物理学の荒勝文策教授と医学部病理学の杉山繁輝教授を中心とする調査団第一陣は、810日に広島入りした。このときの放射能調査結果や病理解剖所見などのデータの多くは連合軍に没収され、公表を禁じられた。


916日、荒川研の第三次調査隊6名は医学部が根拠地とする大野陸軍病院に合流した。その翌日の夜、土砂降りの雨に足止めを食った調査隊一行は思いもよらぬ悲劇に襲われた。原爆投下後1ヶ月あまりで、広島地方を襲った巨大台風「枕崎台風」による山津波だった。当時、大戦中に天気予報を禁じられていた気象庁の機能は回復していなかった。鹿児島、枕崎を2時半に通過した巨大な台風の速度が予想をはるかに上回ることを、枕崎測候所は発信できなかった。広島管区気象台にとって、巨大台風の直撃は予測できず、警報を発しなかった。


 台風による広島県下の死者・行方不明者は2012人にのぼった。被害は呉市に最も甚大で、山津波による死者は1154人と記録されている。広島市内も、原爆被害に追い打ちをかける未曾有の大洪水となった。広島市の南西、宮島の対岸で山陽線大野浦駅近くの山裾に位置する大野陸軍病院は、午後10時過ぎに襲った鉄砲水によって一瞬にして破壊・流出した。原爆症に苦しめられる被爆患者約100人、病院関係者98人に加えて、京都大学調査団員11人(医学部8人、理学部3人)が遭難した。病理学の杉山繁輝教授、内科の真下(ましも)俊一教授が含まれていた。原爆症患者は1ヶ月間苦しんだあと、水に飲み込まれた。この悲劇が京大に伝えられたのは、ようやく1015日になってからだった。広島の被災自体が東京で新聞報道されたのは5日後の922日だった。


 2005917日には、広島大学と京都大学の合同で、60周年の記念式典がしめやかに開催された。現在、大野陸軍病院あとには「京大医学部調査団遭難碑」が建っている。


(参考資料.柳田邦男著「空白の天気図」、新潮文庫、1975


 

posted by pathologist at 20:22| Comment(0) | 以前の日記
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